杉本苑子 「華の碑文 」を読む

水曜日  晴れ。
雨天と晴天が交互にきてこの秋は落ち着かない。今日は「浜友会」なれど、師匠風邪で不調とのこと、おかげで稽古は中止。


先日の「友枝会」で「半蔀」ので作り物が橋掛かりに出ていたが、物の本、また「謡い本」には作り物は常座に出す、としてある。橋掛かりに置いた狙いは何か?師匠に聞いておきたいことだ。

杉本苑子さんに世阿弥の生涯を書いた「華の碑文」という長編小説を読んだ。30年も前に出された作品でツンドクになっていたものだが、今までよく理解出来なかった田楽、猿楽のことがテーマの一つになっていて参考になった。(1978年版 中公文庫 絶版)
観阿弥世阿弥の父子は、足利義満の手厚い庇護を得たおかげで、それまでの田楽、猿楽を「能」のレベルにまとめあげることが出来、それが今日の「能」の礎になっている。この父子の存在がなかったら今の「能」の姿はなかっただろう と思うのは、自分の実感である。別の面では、この足利義満の評価とバックアップがなければ、観阿弥世阿弥の芸も大きく育たなかったのは間違いないと言える。

ところで、足利時代というのは南北朝の争いが続いていたころで、足利義満の庇護下にあった観阿弥世阿弥は意識せずに北朝をバックにしていたことになる。
 ところが杉本さんは、観阿弥の出自は楠氏の縁続きだったという説を出し、裏づけとして、小説には正成の系図の説明とか、正成の後裔が「能」で成功している世阿弥に、京都まで何度か金品をタカリにくるエピソードが書き込まれている。世阿弥が義満の死後、跡を継いだ足利義持から段々に軽くあしらわれ、世阿弥が70歳で京都から佐渡に流されたのも南北朝のシガラミだったのではないか というストーリーを展開している。

 世阿弥を論じた文献は数多くあるが、その一つを必要があって読んでいたら、観阿弥の出身は大和の猿楽大夫の三男で、楠正成の系図と結びつけた説明は、観阿弥世阿弥をムリヤリ伊賀の武士の出身にしたいための伝承で、信ずるに値しない。ましてや小説家( 杉本さんのこと)の強調する観阿弥 南朝スパイ説など作り事に過ぎないとしている。(岩波講座 能楽の歴史)

幽玄の花を根付かせた観阿弥世阿弥に、このようなナマくさい議論が描かれるのは「能」の理解を助ける一つの材料になる。なお、杉本さんは若いころ宝生流の謡い、仕舞を習っていたそうで、そのためか、この小説には、専門的な能楽の源流がよく調べてわかり易く書かれており、素人にはよい手引きになっている。