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幻冬舎新書の1冊、中川右介「カラヤンフルトヴェングラー」を読む。
自分の世代よりやや上の人は、フルトヴェングラーの音楽を至上のものとして語っていた。それも殆んどの人が、その音楽をナマで聴いたり、映像でみたりしたのではなくて、LP,或いはSPで聴いて、耳から入るものを至福のものとしていたのだ。純粋に「音楽」だけに酔っていたと言える。
フルトヴェングラーは1922年にベルリンフィルの首席指揮者に就任し、1954年に亡くなるまでその席にあった。跡を継いだのがカラヤンで、1989年に亡くなるまで 終身指揮者としてその座にあった。カラヤンには沢山のCDや映像記録があり、また何度か来日していて「馴染み」と言う点ではフルトヴェングラーより遥かに深いものがある。ところがこのカラヤンの音楽を、フルトヴェングラーのそれのようにかけがえのないものとして心酔している人は少ない。それはカラヤンがヨーロッパの音楽界に「帝王」として君臨していた姿勢にマイナスイメージが付きまとっていたからかも知れない。
この本は2人のそのような「音楽」について語るのではなく、主題はカラヤンがどのようにしてフルトヴェングラーの跡を継ぐことになったのか、そのドロドロしたドラマを綴ったものである。
カラヤンフルトヴェングラーに嫌われていたため、1954年に音楽監督に就任するまでベルリンフィルを振ったのは、16年間でたった10回、フルトヴェングラーが戦後ナチとの関係を疑われてドイツでの音楽活動から追放されていた間、ベルリンフィルを振っていたのはチェリビダッケで、400回も指揮台に立っていたという。本来なら彼がフルトヴェングラーの後釜になるのが自然なのだが、何故10回しか振っていないカラヤンが跡に座ることになったのたのか、この物語を説いたのが本書である。

 一読、この世界は、音楽性が優れていることだけではなく、時の運があることの外に、本人の楽団員、音楽プロデューサー、劇場スタッフなどとの相性が良くないとたちまち蹴落とされてしまう厳しいものだということがよくわかる。チェリビダッケが良い例だ。ベルリンフィルの終身音楽監督という栄光の座も「美」だけでなく、おぞましいカケヒキと、運の巡りあわせがないと手に入らないものだったのだ。ザルツブルグ音楽祭と、バイロイト音楽祭をめぐるフルトヴェングラーカラヤンの争いは凄まじい。
カラヤンフルトヴェングラーによってザルツブルグ音楽祭から締め出され、バイロイトを手に入れたという。このあたりの史実は良く調べて記述してあり、決して興味本位の暴露ものにはなっていない。1951年 バイロイト復活の年、カラヤンは「指輪」と「マイスタージンガー」を振り、フルトヴェングラーはオープニングで第九を振った。オープニングという栄誉はあるものの、音楽祭での役割はどう見てもカラヤンの方が重い。ところがこの第九は、伝説的な名演奏として今もCDが売れ続けているのだ。2人の争いにチェリビダッケがからんでいることは初めて知ったが、彼は音楽性の高さで人気はあったが、個性が強すぎてベルリンフィルの楽団員に嫌われたらしい。結果論では、チェリビダッケがあったからこそカラヤンが跡継ぎになれたということだ。
チェリビダッケは録音、録画が嫌いでスタジオ録音はあまりしなかったようだが、晩年のミュンヘンフィルとのライヴが幾つか作られている。その一つ、ブラームスの第一
交響曲を聴いたが、大河の如き悠然たる演奏だ。ハイドンの交響曲も彼の演奏は堂々たる大曲の趣きになっている。良し悪しは別として、これがチェリビダッケのスタイル、カラヤンとは対蹠的な演奏だ。彼は一時読売日響の客演をつとめ、日本では人気もあった。最後の巨匠というべきだろう。1996年8月没。