水曜日 晴れ。 
 朝から東京へ。52会準備の打ち合わせ。発足16年を経過し、メンバーの年齢は立派な老人クラブになってきた。次回は来年1月18日とし、案内を出すことに決定。出席者を確保するための若干のアイデイアを出しておいた。

 
夕刊に2年ぶりに吉田秀和の「音楽展望」が載っていた。タイトルは「モーツアルトってだれ?」
今年の生誕250年の大騒ぎも間もなく終るが、生まれて250年、いまも数え切れない場所で、数え切れない人がモーツアルトを演奏し、そこに違ったモーツアルトが鳴る。それがモーツアルトの偉大と音楽の永遠性だ と云うのが主題。なにしろこの主題には云いたい事、書きたいことが一杯あってとても紙面が足りないということがよく読み取れる情熱的な文章だ。とても90才を越えた人の筆ではない。吉田は半世紀前にワルターの振る「優美な女神の使いのような」モーツルトを聴き、ザルツブルグフルトヴェングラーのあの「ドンジョバンニ」を聴いていて、これが彼のモーツアルト像になっているのだ。(この二人のモーツアルトを実際に聴いている人は、吉田を除いてはもういないかも知れない。)吉田は来日したメトロポリタンの「ドンジョバンニ」について、歌手の中ではネトレプコがずば抜けて生きていて「ギラギラ」したドンナアンナを聴かせた と評している。今はワルターの聴かせたような優雅なモーツアルトだけではなくなったが、それも彼の音楽の永遠性だ、と説きたいのが今回の趣旨だ。「音楽展望」はこれから3ケ月に1度発表されるとのことだ。

 ところで、自分が音楽を聴き始めた頃は、トスカニーニフルトヴェングラーワルターの時代で、ナマ演奏に接するなど夢の夢で、専らラジオが音源だった。だから映画「カーネギーホール」で「マイスタージンガー」を振るワルターの映像に触れたときは、身体の震える思いをしたものだ。吉田秀和が、モーツアルトワルターフルトヴェングラーで聴いてしまった。おかげで今に至るまでこれを超える演奏に出会えずにいる、と書いている。ウン、よくわかります。自分にとっては、ラトル、ウイーンフィルのベートーベンがそれです。
 いかん!吉田秀和を読むとこちらもキリがなくなる。  おわり!