*{音楽}近衛秀麿

金曜日 雨。
 今日梅雨入り宣言。実感では5月半ばから梅雨の
 ような感じだった。
  近衛秀麿という人がいた。オーケストラの指揮者
 として知られた人で、近衛文麿の異母弟である。
 今は全く語られることもないが、1950年代に近衛
 管弦楽団を結成して定期演奏会も開いていた。
 学生時代にその第9を聴いた記憶がある。
 1950年に「オーケストラをきく人へ」という啓蒙書
 を婦人画報社から出しており、自分の手許にある。
 出版されて7〜8年後に古本屋で買ったものだ。
  オーケストラの楽器の説明とか、指揮者とは何をする
 のかとか オーケストラの楽譜の書き方などを説いており
 ならべて書くと無味乾燥なものだが、たとえば、説明のために 
 使われている譜例が、ワーグナーラヴェルベルリオーズ
 など当時としては目新しかったこと。楽器の説明が懇切丁寧で
 今でも役に立ちそうなこと。指揮者は譜面どおり指揮をしては
 いけない、それは何故か、という主張が分かり易く説かれて
 いること などで類書にない印象深い著作だった。
  ところで今日、彼の年譜をみていたら、驚くことに戦前
 ベルリンフィルを2度も指揮をし、フルトヴェングラーとも
 親交があったという。しかも音楽学校は出ておらず、山田
 耕作に作曲を習い、バイオリンを学習していただけなのだ。
 戦前、戦時にヨーロッパに滞在し、本場の空気が身について
 いたので、戦後帰国してから、日本に本格的な音楽ホールが
 ないことをいつも嘆いていた。
  問題は女性関係が目茶目茶で、関係のあった女性があちこちに
 あったらしい。外国でお子さんは何人かと聞かれて、すぐに答え
 られなかったという。
 
  音楽では、近衛は大関、朝比奈隆など前頭だ と云う人も
 いるくらいだが、私生活の話題で日本では重く見られなかった
 らしい。 近衛秀麿は1953年、73才で亡くなったが、藤原義江の
 弔辞を代読した団イクマは、全文を読めなかったという。
 藤原の弔辞には、秀麿の女性関係が縷々として書かれていたから
 である。
  近衛は貴族だった。朝比奈が書いている。近衛さんに「お宅は
 戦争で焼かれましたか」とたずねたら「ええ、焼かれました」
 「いつ頃?」近衛の答えは「はい、応仁の乱 です」だった。
              (「朝比奈隆の回想」)