昭和20年の今ごろ?

水曜日  曇り

 昨日に続き 朝から涼しい。気温は30℃に届かない模様、30℃を超えるかどうかで

気分も随分違うものだ。35℃という「猛暑日」の記録は 当地ではまだないが、何しろ真夏はこれからだ。覚悟をしておいた方がいいと思うが「策」なし。内田百間、昭和20年の日記に曰く。「7月17日 火曜日、10時40分警戒警報にて起こされた。11時20分

空襲警報鳴る。表へ出たが雨は降っていないけれどくらい雲がかぶりて真暗闇なり。

あと略,」ほかの日も記述されているのは、殆ど食料と空襲のこと、百閒は焼け出されて掘立小屋に住んでいたのだ。気温どころではなかったのだろう。同じ時 永井荷風は3月10日の東京大空襲で焼け出され、知人のすすめで関西 明石にひとり疎開をしていた。更に明石も空襲の恐れありとのことで、今度は谷崎潤一郎のすすめで岡山に移っていた。日記に曰く。7月14日 晴。蒸暑甚だし。東京凌霜子来書。(注 市川在 相磯克弥のこと。晩年の荷風のもとに出入りし、さまざまな見聞を残し、葬儀の段取りまで行った)7月15日 日曜日 晴。谷崎氏勝山より来書。直に返書を裁す。7月16日 晴。夜大雨。7月17日 市中銀行へ用事。焼け跡の町を歩む。等々。ここで見る限り天候の記載はあるが気温の記述は1日のみ。

 気温の感覚が、自分が記憶している6~70年前はどうだったのかと思いつきで百閒と荷風の日記を引っ張りだしたのだが、ページを開くとそこに書かれているのは、戦争が日常生活をいかに破壊するかということだった。気温どころではなかったのだ。(アベ国防軍総裁心得に読んで欲しい。)

 昭和20年6月、7月、8月,9月に書かれたいろいろな人の日記を読み較べてみたくなった。困ったことだ。

大仏次郎高見順徳川夢声山田風太郎古川ロッパ、そして永井荷風、内田百閒。まだあるかも知れない。 大変だ。

  「猛暑日」の記述探索が大変な方向にスライスしそうだ。注意しないと熱中症になるぞ!