岡本綺堂日記 正続

木曜日  雨。
終日 氷雨。寒い。やっと真冬になった気分、2〜3日前の春はどこへいったのか?気象、気温がきちんと定まらない。予定もたてにくく落ち着かない。

 暮れから正月にかけて青蛙房刊「岡本綺堂日記」正続1300ページを読み上げた。大正12年9月の大震災のあと、9月23日から昭和5年12月31日まで約8年間、1日も欠かさず書き継いだ日録である。

 自分は岡本綺堂の名前は知っているが、作品はひとつも読んだことはない。有名な半七捕物帳も知らない。だからこの日記が自分の読んだ綺堂の唯一の作品ということになる。

日記は綺堂の死の半年前、昭和13年の9月末まで書かれているが、公刊されたのは昭和5年までで、残りの原本は早稲田大学演劇博物館に寄贈されている。また、綺堂は中学生の頃から日記をつけ始めノートが35冊になっていたのだが、残念なことに大正の大震災で皆焼けてしまった。震災後に再び付け始めたものを8年分刊行されたおかげで、我々も目にすることが出きるようになった。

 綺堂は、日記に荷風のような感情的な喜怒哀楽は残していない。毎日毎日、気温、天候、起床時刻、来客、散歩、仕事の進行が時刻を付して記され、家族のことにまで及んでいる。就寝時刻や睡眠の状況 良く眠れたかどうか など、実にコマメに記録し続けた。何年にもわたってその調子が崩れていないのは驚くべきことだ。

だから読み始めは無味乾燥な備忘録のような感じもしたが、読んでゆくうちに、綺堂の落ち着いた生活リズムと、乱れのない勤勉な雰囲気に引き込まれて、こちらも安心感をもって読みすすめられるようになった。折角執筆に心を入れているところへ、不意の来客が入るような記述など、読んでいると自分に邪魔が入ったような気にさせられることも多い。無味乾燥どころか生活感が響いてくる作品である。

感じたのは、この時代TVはなく電話もおいてなかったようで、情報の交換はすべて人との対面、手紙、情報の入手は新聞で、今のようにメール、ケータイ、PCなどの無機物ではなかったことだ。日記にも手紙のやりとり、面会、新聞で知る慶弔情報の記述が多い。文字通り血の通ったコミュニケーションだったことがよくわかる。

日記中に、上田ふみ子という女性が自分の原稿を見てもらいに綺堂を訪れるところが時々出てくるが、彼女はのちの円地文子である。彼女は綺堂の門下生だったのだ。余計なことかな?

この本は実に良く出来ている。「良く」というのは、造本も勿論だが(青蛙房は良心的な丁寧な本造りをする書肆である)この日記を編集、刊行した岡本経一氏の、日記を通して綺堂の人間性を読者に知らしめようとする細かい気配りが実に懇切丁寧なのある。

日記を補完する詳細な年譜のあること、出てくる人物について、40ページにもわたって、家族親戚、門下生、ジャーナリズム関連にわけて温かみのある解説をつけていること。そして綺堂の書いた戯曲洩れなく年表にしてあること。この年表はこの分野に知識のない自分には兎も角、関心のある向きには大変な価値のあるものに違いない。この人の仕事が付いていなかったら、この日記も並みの出版物に終わったかもしれない。だからこれは綺堂の日記であると共に、岡本経一氏の立派な労作である。