12月9日   金曜日

 今年は、夏目漱石没後100年、(漱石は大正5年12月9日没 今日は漱石忌です。)その上

生誕150年にあたるということで、朝日新聞の、「猫」や「三四郎」の連載をはじめ、NHK、民放の何本かの漱石関連の特集番組の放映、各地の文学館等での展示会、岩波書店の何回目かの「漱石全集」の発行(今日が最新刊の第一回の配本,「吾輩は猫である」など、行事、イベントは、応接暇なしという感じだ。今日の新聞には、漱石のアンドロイドの写真まで紹介されている。自分も、朝日新聞漱石関連の特集記事を暫く切り抜いてためていたが、整理しきれなくて途中でやめてしまった。それでも切り抜きを入れた袋はズシリと重い。一人の作家が、没後100年というだけで、これだけ広く大きく採り上げられるのは何故なのか?漱石と同じ年に生まれた幸田露伴尾崎紅葉正岡子規など立派な没後100年の作家だが、漱石のようにお祭り騒ぎで扱われてはいない。3人とも忘れられた「明治の文豪」で、文学史上の作家に祭り上げられているだけだ。何故漱石だけが生誕150年という過去の作家でありながら、現在的な人気が続いているのだろうか。

 漱石には「坊ちゃん」とか「吾輩は猫である」「草枕」「虞美人草」など、読んでいなくてもだれでも名前を知っている作品がある。(「猫」を最後まで読んでいる人は少ないと云われている。)他の3人はどうか?幸田露伴 ウーン 「五重塔」、尾崎紅葉金色夜叉」。だけどあとの一人、正岡子規の代表作は何だろう。  あと次号。