石川達三の筆禍

土曜日  晴れ

 朝は爽やかな風が流れ、「秋」きたると思わせたが、午後から気温が上がり、予定していた外出も取りやめ。明日は気温も30℃を超えるそうで、また夏日になりそう。暫く籠城覚悟だ。

 

 朝日新聞のコラム「筆禍をたどって」が9日間の連載で終結した。筆者は朝日新聞編集委員 河原理子さん、主題石川達三が蒙った筆禍事件のかずかず。筆者の言「そう、石川達三はへそまがりだ。そんな作家の「筆禍」をへそまがりの記者(本人)がたどる。言論の自由も脆いものかもしれないと、このごろ思えてならないから」。

 石川達三の小説はもう読む人はいないかも知れないが、「人間の壁」「風にそよぐ葦」「金環食」など社会派の作家として多くの読者を得ていた。自分もその一人だったかも知れない。石川達三の年譜を読むと、日華事変の始まった年、昭和12年の12月に中央公論特派員として中支南京に派遣され、帰国するや現地の状況を「生きている兵隊」の題で11日間で書き上げ、雑誌「中央公論」の3月号に発表されたが、伏字だらけだった。更にこの中央公論は発売禁止処分をうけ、編集長、発行者と共に特高に調べられ、有罪処分となった。

 これが石川達三の筆禍の始まりである。

「生きている兵隊」は12章からなるが、とくに最後の11章、12章は発表された時は、全文×印の伏字で一般人は読むことはできなかった。それどころか中央公論3月号は伏字をしながらも発禁処分となり、「生きている兵隊」を切り取った上で発売することが許されたという。

河原さんは、「生きている兵隊」の全文は中公文庫で読むことが出来ると紹介しているが、自分は昭和30年11月刊の筑摩書房現代日本文学全集第48巻で読み、「皇軍」といわれていた日本兵の中国での行状を、よくぞここまで書いた、また書かせたものと,

びっくりした記憶がある。この筆禍事件で石川達三中央公論編集長 雨宮庸蔵は禁固4ケ月、執行猶予3年、発行人は罰金100円を課せられた。

河原さんの文章は言いたいことが多すぎて、資料が錯綜し、時系列的な流れがスンナリと読み取りにくいところもあるが、戦後のある時期流行作家だった石川達三が、敗戦の次の夏、原爆を批判して書いた作品が占領軍に公表禁止処分になり、戦後も再び筆禍を蒙ったという事実を知らされた。この原文「戦いの権化」は、1954年に発行された石川の「短編集」に入れられたというが、「短編集」の書名が記載されていないのは河原さんの点睛を欠くミス。失礼!

河原さんの文章には、参考にされた書物が各所に紹介、引用されているが、そのすべてが自分の手元にあり、目を通しているのに驚いた。それは、石川達三「経験的小説論」、雨宮庸蔵「偲ぶ草」、風間道夫「尾崎秀実伝」、「中央公論社の八十年」の4点。自分もウデとアタマがあれば石川達三筆禍論くらい書けたのに。恥じ入るのみ。