芥川賞選考委員 滝井孝作のこと   

 木曜日   曇り→晴れ

 今日は全国的に5月の気温として記録的な低温だったらしい。本来なら爽やかな緑の風に誘われて外に出るところだが、暖房をつけて空しく部屋をウロウロするのみ。

 芥川賞が創設されたのは昭和10年、80年近い歴史のある文学賞だが、第1回から70回まで何と38年間も選考委員を続けた人がいる。それは作家の滝井孝作である。この人の芥川賞のすべての選評が、滝井のある随筆集の末尾に付録のような形で載せられているが、これを通読すると、こうした文学賞を選ぶウラが見えるようで、とても面白い。一つの例として、昭和30年の下半期の芥川賞は、あの「太陽の季節」が受賞したのだが、滝井はもう一つの候補作品 藤枝静男の「痩我慢の説」の方を推薦した。滝井はこれが一番よいと思い強く推薦したのだが、大方は「太陽の季節」を採ると云われ若い人に譲歩したといっている。審査員の世代間の価値判断に温度差があることがわかる。(滝井孝作 60歳)ここで終わらせないのが滝井の根性で、この「太陽の季節」を、自分はスポーツのことを知らないので、「太陽の季節」と「奪われぬもの」という同じ石原のスポーツ小説を合わせて知り合いの庭球選手に読んで貰って、その人の見解をきき、それを載せている。少し長いが一部を引用する。「これを書いた人はスポーツマンではないらしい。よくしらべたものでもないらしい。スポーツ用語に違いが多く見られる。中略 「太陽の季節」というのはふざけた小説で、これにスポーツ精神は些かも出ていない。運動選手は皆真面目で真剣です。この小説は、運動選手はこんなものかと誤解される所もある。スポーツをこんな風には書いてもらいたくない。」

 

     逗子海岸にある「太陽の季節」の碑  慎太郎さんは達筆です。

 

  

 

 この選評に対し石原が当時どう対応したかを知りたいものだ。それにしても、「太陽の季節」を採りたくなかった滝井孝作の深い心情がよく理解できるではないか。

 この時の選考委員の顔ぶれは次の通り。

 

 石川達三井上靖宇野浩二川端康成佐藤春夫中村光夫、 丹羽文雄

 舟橋聖一