志賀直哉の日記

2月9日  土曜日    晴れ

 

 寒し。気象情報によれば今日も最高気温は7℃くらいだったらしい。まさに冬の盛りだ。しかし吐く息が白くなることはないので当地はまだ暖かいのかも知れない。

 

 志賀直哉の日記を読んだ。志賀日記は「志賀直哉日記」としては公刊されていない。1983年版の岩波の全集の中の10巻と11巻、この二巻に明治37年元旦から昭和35年までの日記が収められていて、志賀日記を読むにはこれに触れるほかに路はない。志賀直哉21歳から77歳に至る約60年分の日記だから大変なボリュームと思われるが、荷風のように毎日書いているわけではないし、全く書いていない年もある。それでも1冊千ページに近い量だから、全部目を通すのは大変だった。

 志賀直哉の日記は、手帳に書かれたもの、カレンダーの余白にしるされたもの、和綴じのノートに筆でかかれたものとか、形式がいろいろあり、しかも1年365日書かれた年は少なく、昭和17年、18年、19年の戦争苛烈の時の日記は全くない。また昭和20年も8月9日から21日まではなく敗戦をどう受け止めたのか日記では窺い知ることが出来ない。日記の最後は、志賀直哉喜寿の誕生日、昭和35年2月21日で終わっている。

 

 日記がなぜ時々中断しているのか、また、直哉が直面した筈の社会的におおきな出来事、戦争(日露戦争第一次世界大戦、太平洋戦争)とか、明治天皇大正天皇の死去、関東大震災などの記述がないのはなぜか、このあたりの事情については専門家の考察もあると思うが、それを探し出す方便がない。それをほじくり返したら「志賀直哉論」なる「論文」になってしまう。

 日記の内容は殆ど家族を含めた身辺雑記、毎日誰かを訪ね、誰かが訪れたという記録が続く。誰かというのは有島生馬、武者小路実篤、里見弴、梅原龍三郎など。この時代のコミュニケーションはすべて顔を合わせ、会話をすることだったことがよくわかる。日によっては「忘れた!」というだけの記述もあり、読んでいてホッとさせられる。

 志賀直哉の文学はやはり私小説だったのだ。