丸谷才一 死去

金曜日  曇りのち晴れ。

約1ケ月ぶりの更新、さぼっている間にすっかり「秋」になった。夕方など寒いくらい。
丸谷才一氏 死去、13日。87歳。自分は勝手に平成の3賢人として、高齢でありながら常に優れた文章を披歴していた3人の先人を,あるべき人生としてひそかに敬ってきた。丸谷氏の死去で平成の3賢人が皆いなくなってしまった。
3賢人、あとの2人は、
 吉田秀和 98歳、平成24年5月22日没
 加藤周一 89歳 平成20年12月5日没 である。

比較すると、丸谷氏が一番若くして亡くなったことになる。

3人とも朝日新聞に月1度 定期的にコラムを執筆していた。
 そして、そのタイトルは

 加藤周一   「夕陽妄語
 吉田秀和   「音楽展望」
 丸谷才一   「袖のポケット」 であった。


新聞紙上の評伝が伝えるように、3人ともそれぞれ多くの著作を残しているが、怠惰な自分はその多くを手にしていない。特に丸谷氏は本業は英文学者でありながら長編小説を多く残したほか、日本語論、和歌を中心に据えた国文学史、ユリシーズの翻訳 など間口は広いがどれも本格的な仕事で中途半端なものではない。
 最近では朝日新聞に寄せた吉田秀和への追悼文が、文章の見事さで印象に残っている。「吉田秀和の評論。とにかく文章がうまかった。内容があって新味のある意見、知的で清新で論理的な文章を、情理兼ね備わった形で書くことにかけては、近代日本の評論家中、随一だったのだはないか。<<<戦後日本の音楽は吉田秀和の作品である。もし彼がいなかったら、われわれの音楽文化はずっと貧しく低いものになっていたろう。>>>>膨大な数の人々が、彼の文体と声に魅惑されて、ベートーヴェンや、リヒャルト・シュトラウスの世界に参入した。われわれクラシック音楽の愛好者は彼によって創られた。」(原文は旧カナ使い)
 原文はもっと長いが、全文は故人を惜しみ、讃える文章にこれ以上のものはないという作品になっている。このとき丸谷氏は心臓の手術をしたあと入院中だったが、朝日新聞の依頼を受けて一晩で書き上げたのだという。丸谷氏にも立派な追悼文を捧げる人はいないのだろうか。

 丸谷氏の著書「文章読本」に、文章を書くには先ず「名文」を読め。とあり、名文の例として、世阿弥の作品 謡曲「砧」の文章を挙げている。ここが、丸谷カラーといえるかもしれない。