漱石の遺著「明暗」

水曜日 快晴。
昨日は昼まで風雨激しく、雨戸も半分閉めて篭城!一夜明けて今日は青空。この5月は全く「爽やか」天気が長続きしない。誰もが感じる異常気象で何かの前触れでなければよいが と思う。
夏目漱石の遺著となった「明暗」読了。そこで漱石のこと、若干。
大正5年、今から92年前の5月26日から朝日新聞にこの「明暗」が掲載され始めた。漱石50歳である。漱石は誰もが知るように健康な体ではなかった。何度か胃潰瘍で倒れ、44歳の時など、「門」を書き上げてから、滞在中の修善寺で大内出血を起こし、生命危篤にもなっている。「明暗」の前年には自叙伝ともいわれる「道草」を書き10月に出版されたが、休む間もなくこの「明暗」の準備にかかり、5月には執筆を始めている。漱石は「明暗」には自分のすべてを注ぐ、と友人に手紙を書いている通り、作品は夫婦、兄弟、親子、友人、等々、思惑が複雑にからんだ人間関係のわずらわしさに真正面から取り組んで書いた大長編小説である。執筆中 何度か胃の不調、糖尿病、リュウマチなどで休載したが、作品には病人の弱弱しさは全く感じられない。後半には頁をおくことの出来ない程の緊張感がある。ところが漱石は、11月下旬から12月初めにかけて大内出血を起こし、12月9日に死去した。急逝である。朝日新聞の連載も12月14日、未完のまま188回で終わってしまった。だからこの「明暗」は漱石遺著として出版されてた。
 漱石の作品の中では「心」がいい、と云う人が多いようだが、自分はこの「明暗」が群を抜いて優れているのではないかと思う。最後の方に「清」という女性がでてくるが、「清」は「坊っちゃん」の「ばあや」と同名である。また 鏡子夫人の俗称は「おキヨ」さんだった。漱石にはこの名前に余程思い入れがあったのだろう。漱石はこの「清」に、作品の後半で重要な役割を持たせようとしたのではないかと思うが、これは自分の想像でしかない。「明暗」にはシロウトの読者がそのような「続き」を考えて見たくなるような魅力もある。なお、才人 木村美苗さんが「続明暗」を書き、それが新潮文庫に入っているが、怠惰にしてまだ読んでいない。
 因みに漱石は41歳の時朝日新聞に入社し、以後漱石の小説はすべて朝日新聞の連載小説として発表された。それを発表順に並べてみると、「坑夫」「虞美人草」「三四郎」「それから」「門」「彼岸過迄」「行人」「心」「道草」「明暗」となる。10年でこれだけだから、いまのベストセラー作家に比べると、はるかに量は少ないが、病と闘いながら書き続け、しかも駄作がないのが漱石の立派なところだろう。処女作「吾輩は猫である」は、漱石が朝日に入社する前、39歳から40歳にかけて、雑誌ホトトギスに10回にわたって発表されたもので、これも長編である。漱石は始めと終わりに大長編を書いて生涯を閉じた。


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 「明暗」の初版本(復刻)  背表紙。



 見開き。



 「明暗」の最後。


初版は大正6年1月26日 岩波書店刊。

3行の小活字の文章は次の通り。
「附言 作者はこの章を大正5年11月25日の午前中に書き終わったが、其翌日から発病して、12月9日終に逝く。かくして此の作は永遠に未完のまま残ったのである。」
 この附言の書き手は不明、どなたかご教示下さい。