日本共産党元議長 宮本顕治死去

金曜日 薄曇り。
蒸し暑し。今日20日は関東甲信越地方の平均的な梅雨明けの日だそうだが、まだ明けの気配はない。ことしの7月は記録的な日照不足で気温も低いそうだ。梅雨は短く、猛暑の夏という触れ込みが怪しくなって来たではないか。

 宮本顕治死去。98才!新聞は直ぐに評伝を掲載したが、表面的な事実を羅列してあるだけで真実の宮本顕治像にはなっていない。宮本の人間像が書かれていないのだ。執筆した本人も承知していると思う。真実の宮本像を書くと故人を顕彰する追悼の記にはならないのだ。(産経新聞は「マニュアル革命家の偽善」とする追悼文を出したらしいが未読」


 自分には宮本像の真実を書く力はないが、かねてからの疑問を一つ二つ。
 
 有名な百合子、顕治の獄中の往復書簡集「12年の手紙」を、稀有の愛の記録と評する人もいるが、これを読むとたしかに百合子が獄中の顕治を実に献身的に支えていたことがよくわかる。顕治の望むままに食料や書物を毎日のように差し入れているが、あの戦時の狂気の時代に百合子が自由に差し入れができたのは何故なのか。顕治の獄中の処遇に特別のものがあったのか。同時代の「獄中記」を読むととてもそんな自由な差し入れは許されていないし、第1現品の入手が困難だった。
 二人が結婚したのは百合子32才、顕治23才の時、百合子は9才年上で再婚だった。ところが百合子は1950年小説「道標」3部作を書き上げてから翌51年1月急死する。死因は公式には敗血症といわれている。51才だった。その時顕治は42才、百合子の最後のときに顕治は所在不明で、百合子を看取ることが出来なかった。手伝いの女性と外泊していたという話が残っている。「12年の手紙」は百合子の死後顕治の編集で出されたものだが、こうしたことから、書簡集の真実性に疑問が投げかけられているのも頷ける。
 顕治は7月18日98才で老衰のため死去した。天寿を全うしたというべきだろう。顕治は百合子の死後、半世紀以上独身だった。だが、この半世紀は、彼が権力闘争を勝ち抜いて日本共産党の議長に上り詰めるという、戦後史のドラマの主役を演じた半世紀だった。この上昇の時代に顕治をうしろで支えたのは一体誰だったのか、いまの共産党の幹部は知っている筈だが誰もそれを語らない。
1929年、顕治は雑誌「改造」の懸賞論文に応募して見事1等になった。応募論文が「敗北の文学」。自殺した芥川龍之介を論じたもの。どこかにあると思うが不明。2等入選が有名な小林秀雄の「様々なる意匠」である。これは手元にあるが難解、とても読めない。顕治はこの文芸評論の感性で百合子と結婚した。この時の顕治像のままなら親しみが持てるが、歴史に残る人にはならなかっただろう。