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金曜日 前夜から午前中雨、とくに早朝豪雨。
大雨、洪水警報のスピーカーで4時過ぎに起こされ
そのまま寝付けず。おかげだぼ−ッとした1日となる。
14日、旅行先の宿の新聞で岩城宏之の訃を知る。
岩城宏之とは個人的な知り合いでもないし、彼の
演奏会もあまり聴いてはいない。だが何か親しい友人が
いなくなったような気持ちである。
岩城は丁度50年前、1956年に初めてN響を指揮して
オーケストラの指揮者としてデビューした。その演奏会は
その時、実際に聴いている。日比谷公会堂、曲はチャイコフスキー
の「悲愴」だった。若い人なのでガッカリしたという記憶がある。
当時、N響の常任は山田和雄(一雄はのちの改名)とウイルヘルム
シュヒターだった。N響はその頃、始めてヨーロッパへ演奏旅行を
したのだが、指揮者として抜擢されたのが、新人の岩城と外山雄三
だった。これが大成功をて納め指揮者としての岩城の評価が高くなった。
以後、N響と岩城の時代が暫く続き、自然自分に岩城への近親感が
植えつけられたように思う。
岩城が近年病気勝ちであることは知っていたが、昨年大晦日の
ベートーヴェンの交響曲全曲演奏をした時の中継をみてびっくり
した。9曲を一人で暗譜で立ったままで振るのだから、元気な人
でも、大変なことだと思うが、その日の岩城はかっての、汗を撒き
散らしながら渾身の指揮をしていた姿とはまるで変って、すっかり
やせて、誰が見ても重病をかかえた姿だった。
だが、暗譜で指揮台に立ち通して全曲の棒を振る岩城には、神がかりの如き
壮絶な雰囲気があった。
もしや、これが最後になるかもという予感がして、第9だけ録画をしたのが、 矢張り見納めの姿となった。
岩城といえばどちらかというと、現代音楽を積極的に取り上げ、
日本人の作品の初演も数多く手がけていたが、最近は頭の中は
ベートーヴェンで一杯だったという。今年も連続演奏をやる と意気込み
亡くなる3日前までベートーヴェンの総譜を読んで勉強していたという。
ベートーヴェンが相手なら死んでもいいとも云っていた。
ベートーヴェンの生涯と自分のそれを重ね合わせていたのかもしれない。
岩城宏之は男の美学を貫いて亡くなった。